イグノーベル賞の研究
毎年9月ごろになると、私はイグノーベル賞の発表を楽しみにしています。2026年も日本に関係する受賞があり、日本人を含む受賞は2007年から20年連続となりました。
イグノーベル賞とは
イグノーベル賞は1991年に始まった、ノーベル賞とは別の賞です。主催者は、「人々をまず笑わせ、そのあと考えさせる」功績をたたえる賞だと説明しています。研究に限らず、発明や活動も対象となり、毎年10件が選ばれます。日本からたまごっちも選ばれています。
名前やテーマだけを見ると、冗談のように思えるものもあります。けれど、今回紹介する研究は、どれも実在する研究です。身近な疑問を本気で観察し、測り、確かめる姿勢には、病院で日々の臨床課題を解こうとする自分の仕事と通じるものを感じます。
授賞式にもイグノーベルらしさがある
授賞式では、観客が一斉に紙飛行機を飛ばす演出が恒例です。2026年にチューリヒで開かれた授賞式でも、約1500人の観客が会場を紙飛行機で埋め尽くしました。
受賞スピーチが長くなると、8歳の少女が「ミス・スウィーティー・プー」として話者のそばへ行き、「お願い、もうやめて。退屈なの」と、話が終わるまで繰り返します。かわいらしい進行役ですが、どんな肩書の研究者にも容赦がありません。難しい内容を短く、わかりやすく伝える大切さまで教えてくれる名物です。
私が気になった三つの研究
ここからは、私が特に印象に残った受賞研究を3つ紹介します。
2009年医学賞 左手だけを60年以上鳴らした指関節
子どものころ、「指を鳴らすと指が太くなる」と注意された人もいるでしょう。2009年の医学賞を受けた米国の医師ドナルド・L・アンガー氏は、左手の指関節だけを毎日鳴らし、右手は鳴らさない自己実験を60年以上続け、1998年に報告しました。結果は、両手に関節炎はなく、左右差も認められませんでした。
被験者は一人だけなので、これだけで「絶対に安全」とは言えません。ただ、2011年に50~89歳の215人を調べた研究でも、指を鳴らす習慣と手の変形性関節症との有意な関連は見つかりませんでした。「指を鳴らすと必ず関節炎になる」という説の根拠は乏しいようです。
2024年生理学賞 肛門から酸素を届ける腸換気
2024年の生理学賞は、岡部亮氏、武部貴則氏ら11人のチームに贈られました。受賞理由は「多くの哺乳類が肛門から呼吸できることを発見した」という思わず聞き返したくなるものですが、狙いは重い呼吸不全を支える新しい治療法の開発です。
2021年の原著では、呼吸不全のマウスに酸素ガスや酸素を多く溶かしたパーフルオロカーボン液を直腸から投与し、酸素化と生存率の改善を確認しました。ブタでも同様の効果を示しています。人工呼吸器やECMOを置き換えるのではなく、肺を休ませながら酸素供給を補助する可能性を探る研究です。2025年には、健康な成人男性27人に酸素を含まない液体を直腸内投与して安全性を評価する第1相試験も報告され、ヒトでの検討が始まっています。
2004年公衆衛生賞 床に落とした食べ物の5秒ルール
「床に落としても5秒以内に拾えば大丈夫」。この5秒ルールを聞いたことがある人は多いでしょう。
2004年の公衆衛生賞を受賞したジリアン・クラーク氏は、高校生のときにイリノイ大学の研究実習でこれを調べ、大腸菌を付けたタイルにクッキーやグミを置くと、5秒未満でも菌が移ることを確認しました(査読付き論文ではなく、大学の広報記事での紹介です)。その後の査読付き研究も結論は同じです。2007年のドーソン氏らの実験では、汚染したタイルにソーセージを5秒置くだけで99%を超える菌が移り、2016年の実験では1秒未満でも移行が起こりました。菌の移り方は接触時間だけでなく、床材(カーペットは移りにくい)や食品の水分量(スイカは移りやすい)にも大きく左右されます。
つまり、5秒は安全と危険の境界線ではありません。床の衛生状態が分からないなら、食べないのが無難です。
笑いの先にある科学
3つの研究に共通するのは、出発点が驚くほど身近な疑問だということです。気になる研究が一つでもあったなら、今後のイグノーベル賞の発表が少し楽しみになるかもしれません。
M2 Y.N.
